現代は医療技術が発達して歯周病で死に至るケースもなくなりました。
それまで歯周病を始めとした感染症は治療方法が現代と比べて未発達であったため、命に係わることも珍しくありませんでした。
また、抗生物質や麻酔もない時代の治療は書物などによると苦労が察せられます。
今回は歯や口腔トラブルに悩まされたと伝えられる歴史上の人物についてまとめました。
鎌倉幕府を開いた後、1198年の暮れに落馬し、体調を崩し翌年1199年1月13日に死亡。この死因については様々取り上げられているが、その中に頼朝が水を飲んで死亡したとされる説がある。すなわち落馬は脳虚血発作によるもので一旦は回復したものの、療養中に水を誤嚥し、肺炎から肺血症をきたして、今でいう誤嚥性肺炎が直接の死因でなかったかと考えられている。
生涯を通じて幾度も命を狙われ、権力抗争のため多くの一族を粛清してきた頼朝は、常にストレスに曝され、むし歯や歯周病を悪化させていったことも考えられる。口腔内の衛生状態を良好に保てないことにより、細菌が気管から肺へと吸引され肺炎の発症に至る。
孤軍奮闘巨大勢力に敢然と立ち向かい、徳川家康が死を覚悟するほどあと一歩のところまで追いつめた彼の生きざまが、後世の庶民たちから圧倒的な支持を受け、歴史マニアや戦国ゲームファンの間では大人気のヒーローであるが、戦場でのストレスなどにより老け込んだ様子が当時の書状より察せられる。
関ケ原の戦い(1600年)で破れた後、高野山へ配流。その際、姉婿に宛てた書状に「歯など抜け申し候。ひげなども黒きはあまりこれなく候」と書いているように、大坂城入場の頃には歯周病の悩みを抱えた初老の武将だったと伝えられている。
「南総里見八犬伝」などの作品で人気作家になるが、多忙を極め生活は不規則に。自律神経の乱れからドライマウスが生じ、唾液が減少し、口内の自浄作用が衰えていた上、唯一の楽しみは甘いものを食べることであったといわれている。
それらの要因で歯周病を発症。30歳頃から歯が抜け落ち始め、61歳で全ての歯を失った。
57歳で総入れ歯を使いはじめる。馬琴日記には、前歯をとめた三味線の糸が切れて入れ歯師に締め直しに出したり、入れ歯の奥歯に金属の鋲を打つなど、修理してもらった当時の記録が残っている。
徳川幕府14代将軍。1866年4月より反復する胸痛、6月には咽頭痛と胃痛、両脚の浮腫が生じ、大坂城において脚気衝心のため死亡。彼の治世はペリー来航に続く開国と攘夷の争い、2回の長州征伐など極めて多難な時期であった。
ストレスを避けるため甘党となり、糖代謝のために体内のビタミンB1を消費するという悪循環に陥ったのではないかといわれている。(脚気の原因はビタミンB1の欠乏による)
戦後、増上寺の徳川将軍家墓地改葬の際に行われた家茂の遺骨調査によると、遺骨のう歯の程度がひどく、残存する31本の歯のうち30本が侵されていたとされている。甘党であったことにより、脚気のみならず虫歯にも苦しみ、若くして命を失った。
幕末の新選組の二番隊組長。腕に覚えのある新選組隊士のなかでも、「一に永倉、二に沖田(総司)、三に斎藤(一)の順」と言われるほどの剣の腕前であったといわれている。明治維新の後も生き延び、晩年は東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)の剣術部の指導にあたった。
そんな百戦錬磨の永倉でも、最後は虫歯菌が骨膜炎を引き起こし、それが全身に回ってしまったことが原因で亡くなったと伝えられている。